金は古代から資産として権力者や富裕層に大切にされてきました。現在も資産を金で所持する方法がありますし、金相場などはよく注目を浴びますよね。金は古代から現在に至るまで資産であり、財産です。各国の通貨が不安定なときでも国に関わらず価値を持つ金は「安全資産」や「有事のお金」とも呼ばれています。
金がこのように呼ばれるようになったのはなぜなのでしょう。日常の中で知っていると役立つ豆知識として、資産としての金の歴史をご紹介します。
目次
金は何時から資産だったのか?古代文明での金の扱い
金は古代文明の時点ですでに資産の一種でした。
主な古代文明で金はどのように扱われていたのか簡単に説明します。
エジプト文明と金
エジプト文明のピラミッドからは多くの金製品が出土しています。そのため、古代文明の中でもエジプト文明は金と関係の深い文明だとも言われます。
古代エジプト文明では多くの金細工・装飾品が作られており、金の細工技術も発達していました。金はすでに権力者の財産であり、装飾品でした。古代エジプト文明では、すでに金は権力や富の象徴であり、資産でもあったわけです。
メソポタミア文明と金
メソポタミア文明でも金の細工技術が発達しており、すでに権力者の装身具や装飾品などに使われていました。
メソポタミア文明で信仰されていた神(あるいは宇宙人)から人々は金の細工技術を教えてもらい、代わりに装飾品などを捧げていたとも言われています。
古代メソポタミア文明でもすでに金はすでに一般的なものであり、価値のある金属でした。
トラキア文明と金
トラキア文明も金と関係の深い古代文明です。トラキアは金の産地であり、文明の中ですでに金の細工・加工の技術が発展していました。現にトラキア文明の遺跡からは装飾品や像、盃など、多数の金細工が見つかっています。
また、トラキア文明では金は装飾品などによく加工されており資産価値が認められていたと共に、永遠の象徴として大切にされていました。トラキア文明では権力者が所有していたと言われている黄金のマスクや金細工なども見つかっており、金は権力や身分の象徴でもありました。
リディア王国と金
リディア王国とは現在のトルコのあたりにあった古い王国です。
リディア王国の川では金が採れたと伝わっており、その金を使ってある物が造られていました。ある物とは、世界最古の金貨です。
古代のエジプト文明やメソポタミア文明などでは、金の細工物や装飾品などは製造されていましたが、金貨はまだなかったと言われています。なぜなら、古代のエジプト文明やメソポタミア文明では、現在のように貨幣や紙幣を使った取引が盛んに行われてはいなかったからです。現在のような経済・市場とは違っていたのです。
古代文明から時が経ち、貨幣を使った取引(貨幣経済)が盛んになってから、金貨が造られるようになりました。はじめて金貨が造られたのが、川から多く金が採れたリディア王国だったわけです。
なお、リディア王国では貨幣として金貨が造られていましたが、純金ではありませんでした。リディア王国の金貨は金に銀を加えて造られていました。
日本の金の歴史は?平安時代~鎌倉時代~安土桃山時代まで
次に日本の金の歴史について見てみましょう。
日本で金が見つかったのは、古代文明が栄えた時代よりさらに後のことです。
ただ、日本には平安時代より前から、大陸から金が持ち込まれていました。持ち込まれた金はときの権力者によって活用されていました。
平安時代の金は建物や仏像などに使われていた
日本で金が見つかったのは8世紀のことだったと言われています。ただ、この頃の日本の金は価値こそあったものの、現在の金とは位置づけが少し違っていました。なぜなら、金が見つかった頃の日本では、金をよく建築物に使っていたからなのです。
『続日本紀』によると、現在の宮城県で金がはじめて見つかったのだそうです。それまでは、金は大陸から日本に来ていました。金印などは有名ですよね。この他にも大陸から金がもたらされることがあり、日本はその金を建築などに使っていたと言われています。
東大寺の大仏などにも金が使われており、その際は金が足りなくなったとも言われます。ちょうど建築で金不足になって「大陸から金をもらってこないと」と困っていたときに日本国内で金が見つかったという流れです。
この他に、岩手県の中尊寺金色堂などは金が使われている建築として知られています。
なお、日本は大陸との貿易にも金を使っていたと言われています。
当時の日本の金は権力者の装飾品や権力の象徴として使われるより、建築や貿易などによく使われていたと言えるかもしれません。
鎌倉時代の金はお金の代わりとして使われていた
鎌倉時代になると金を価値として使うようになりました。金=富や資産に明らかに変わりはじめたのは、鎌倉時代のことだったのかもしれません。
鎌倉時代には、金は取引に使われる価値あるものとして使われるようになりました。ただ、金を貨幣にしていたわけではなく、砂金や粒などそのままのかたちで取引に使っていたと言われています。
金をより明確な資産のかたちである貨幣にしたのは、さらに後の時代です。
日本では室町時代~安土桃山時代に金貨が造られた
鎌倉時代から室町時代に入り、今まで砂金や粒のまま取引に使われていた金で金判(金貨の一種、大判小判)を鋳造するようになりました。
日本は大陸から貨幣そのものを輸入していたこともあるのですが、室町時代になると鋳造法などもある程度確立されたこともあり、自国内でも金貨・大判小判を造るようになったのです。自国内で貨幣を造るようになった理由、そして金を鋳造するようになった理由は、海外との貿易のためです。
金貨・大判小判は富として蓄えることが可能です。今の日本でも、金貨やインゴットとして金を所有する方は少なくありません。金を鋳造して貨幣にしていたということは、この時代にはすでに現在のような貨幣のかたちで資産を蓄えることが行われていたと考えられます。金はすでに富の象徴、立派な資産でした。
やがて安土桃山時代になると、豊臣秀吉が経済を統一するようになり、鋳造する金貨・大判小判についても統一するようになりました。これまでは金貨・大判小判といっても地域差、個体差がありました。豊臣秀吉があらためて金の鋳造・貨幣について見直し、広く取引に使える資産としての金貨を鋳造するようになったという流れです。
なお、豊臣秀吉が統一して鋳造した金貨は「天正大判」と呼ばれる大きな金貨(大判)です。この天正大判は世界最大級の金貨であり、諸国大名の資産として取引に使われ、蓄えられていきました。
室町時代から安土桃山時代にかけては金山の採掘・発見も盛んに行われるようになり、諸国の大名が資産としての金に大注目した時代でもあります。
現在も金は資産として蓄えられ、資産運用にも使われます。当時の諸国の大名も、現在に生きている日本の人々とほぼ同じように金を資産運用や蓄えとして使っていたわけです。この時代にはもう「資産としての金」が確立されていたと言えるでしょう。
江戸時代以降の日本と資産としての金の関係
日本で金が金貨や取引に使われるようになった時点で資産価値は認められていたと言えるのではないでしょうか。日本は以降の江戸時代や明治時代、そして現代に至るまで金には資産価値を認めています。
江戸時代以降の日本と金について簡単に説明します。
江戸時代には大きな金山が見つかり採掘も盛んになる
江戸時代になると日本最大級の金山が見つかります。佐渡金山です。徳川家康が金山での金の採掘を重視し、金を貨幣にする技術をさらに発展させたため、日本に「金の時代」が訪れました。徳川家康は海外から金の鋳造技術に優れた者を招き、貨幣の品質の統一などにも乗り出しました。
江戸時代になると金は資産の中でも重要な存在になりました。海外との取引にも金が使われ、もちろん国内での取引にも金がよく使われました。徳川家康は金に関するルールなども整備しています。金は国の根幹をなす資産になったと同時に、国の政策や貿易の中で重要な存在になったわけです。
ただ、江戸時代のあたりは「金は資産」ではありましたが、庶民がおいそれと蓄えられるような代物ではありませんでした。
金をたくさん持っているのはあくまで国であり、藩であり、一部の商人や権力者です。現在のように一般庶民が金に投資したり、資産としてインゴットや金貨を所有したりといったことは、基本的にはほぼありませんでした。もちろん、庶民レベルでの金投資や資産運用という考え方も、まだこの時代にはありません。
イギリスから世界に広がった「金本位制」により金は特別な資産に
金が資産として特別な地位を築いたのはわりと最近で、1800年代のことでした。金が特別な地位を築いた理由のひとつが、イギリスの「金本位制」という仕組みです。
金本位制とは、「金を貨幣価値の基準にする」というルールになります。イギリスがはじめた金本位制はまたたく間に世界各国に広がります。明治時代の日本も、イギリスのこの金本位制を取り入れた国のひとつです。当時の日本政府(明治政府)は、「純金1.5グラムを1円」として定めるルールを作りました。まさに金本位制の影響です。日本が金本位制を取り入れて金の価値=貨幣価値のルールを定めたのは1897年のことです。
ただ、世界の国々が導入した金本位制は長くは続きませんでした。金の資産価値は依然として維持されているものの、第一次世界大戦により世界が金や貨幣、取引、貿易どころではなくなったからです。しかしながら金本位制自体がなくなったわけではなく、世界恐慌や戦争などの金や貨幣についての考え方は根強く残り続けました。
なお、金本位制は1970年代まで残っています。古代文明の時代から近代まで各国で「富」「資産」「貨幣」「価値」として使われていた金は、権力者から富裕層、一般市民まで貨幣や市場と結び付けて考えやすく、世界・それぞれの国に、すでに資産・価値・貨幣といった印象・価値観が根付いていたからこそ金本位制は世の中に馴染みやすく、根強く残ったのだと言われています。
このあたりの時代になると国・政府・権力者・富裕層・一般市民に広く「金は資産」という考え方が形成されていると言えそうですね。
金は「金本位制」から「変動相場制」に移行する
金はやがて金本位制(金の価値=貨幣価値の基準)から「変動相場制」に移行しました。
現在、資産運用で常に金を取引していない方でも、金の相場は「変動するもの」という印象があるのではないでしょうか。金相場が常に変動しているのは、金本位制から変動相場制に移行し、金の相場(価値、価格)が常に変わるようになったからなのです。
金本位制から変動相場制に変わり「価値の安いときに金を買う」「高くなったら売る」という金の運用も可能になりました。
現代の金は「安全資産」であり「有事のお金」である
現代の金は日本をはじめとして世界中で資産価値を認められています。
また、金は日本だけでなく世界各国で「安全資産」「有事のお金」として扱われています。なぜ金がこのような扱いをされているかと言うと、それは金が各国の貨幣より「有事」に強いからなのです。
たとえば、A国で内乱が起きたとします。また、B国では自然災害が起きてしまいました。C国とD国は隣国同士であり、民間レベルでよく取引がありました。ですが、この度、貿易摩擦により緊張状態に陥ってしまいました。
A国やB国、C国やD国はそれぞれ国のお金を発行していました。しかし、自然災害や戦争、内乱など「有事」が原因で、市場や為替相場が混乱・低迷し、通貨の価値も変動してしまいます。それぞれの国の通貨や株式などに投資するのも不安なので、投資家も離れてしまい、ますます市場が混乱・低迷してしまいます。
お金は、発行している国が混乱・低迷・すると価値が下がります。しかし、金は世界中で価値のあるものなので、特定の国の国力が下がったり、混乱や低迷があったりしても変わりません。金は国々がどうなろうと一定の資産価値があるのです。金が「安全資産」「有事のお金」と呼ばれる理由はここにあります。
最後に|資産としての金の歴史のまとめ
金の資産としての歴史について紹介しました。
金の資産としての歴史をまとめると、次のようになります。
・古代文明時代には金の細工技術はすでに生み出され、金細工・装飾品などが造られていた
・リディア王国で金は硬貨に使われていた
・日本では大陸から金が流入しており、平安時代になると国内でも金が見つかった
・日本では仏像や建築物に金がよく使われていたが、砂金などを中心に取引に使われるようになった
・やがて日本国内でも金貨(大判小判)が造られるようになり、豊臣秀吉が統一に向けて力を入れる
・江戸時代になると金は政治や経済、貿易、取引などの根幹をなすようになった(日本のゴールドラッシュ)
・明治政府が金本位制を取り入れるが、1970年代になると変動相場制に移行
・変動相場制に移行したことにより、一般市民も金の取引や金を使った資産運用をはじめる
・現在の金は「有事のお金」「安全資産」として人気を集めている
金は古代から価値のあるものでしたが、時代に合わせて少しずつ使い方や扱いが変わり、それに伴い資産として一般市民にも少しずつ浸透したという流れです。
テレビなどで金相場などが取り上げられたときは、ご紹介した歴史について思い出してみてください。